2005.12.6、

未だ禁煙が続いている。自分としては画期的な出来事で、一体いつまで続けられるんだろうとワクワクしながらの日々なのだが、友人から言わせれば、未だ未だ序の口らしい。
昨日から今日に掛けて、簡単な文と資料を作る事があった。今までの苦節38年間、如何なる文を書く時も、如何なるデスクワークの時も換気扇の下にはタバコがあったのだが、今回ばかりはその手助けが無い。
頭が纏まらないし、思考を続けるのに苦労する。とにかく時間を掛けてユックリとユックリと諦めないで纏めて行った。作業中、無意識に換気扇の下へ行く自分を見付けるのだが、最終的にタバコには頼らなかったのだ。
こんなに苦労しても、アッちゃん凄い!偉い! なんて誰も褒めてもくれないし感激してもくれないんだよな。だから自分で自分を褒めるしかない。そうやって自分を励まし勇気づけて、タバコから遠ざかろうとしているんだけど、でも果たしてそれが自分に取っていい事なの?健康に良い事なの? 0.1ミリにニコチン除去パイプを付けて吸っていた今までの方が、健康的なんじゃないの。煙草をやめても、体調にさしたる変化は無いし、口元が寂しいから色んなモノを口にする所為で、太って来たようだし。
禁煙は、百害あって一利無しなんて思ってる訳じゃないし、世の流れに逆行する様な大それた理論を持っている訳じゃないけど、自分の精神と肉体の健康のために、喫煙も悪く無いと思い始めている。けど・・・、弱虫は吸わないんだよな。

2005.11.26、

2週間前から流行風邪をもらってしまったらしく、咳の止まらない日が一週間くらい続いたかなあ。その間、T大やJ大の鞴祭りがあったりして、深酒をする日が続いた気がする。
そして先週の土曜日突然に、自分の声が出なくなってしまった。声帯が傷つき、炎症を起こし、声帯の音声機能全体が完璧に閉鎖されてしまった様だ。とにかく排出されるのは、サーサーという掠れた息の音だけで、声というモノが全く失われてしまったのだ。病院に行けども改善しない。誰かに電話をしようにも声が無いから話にならない。
苦節5日間、ひょっとして、これって治んないんじゃないの?と疑心に襲われ不安になりながら・・・、一昨日(木曜日)辺りから、やっとサーサーという音の隙間に声らしき音が微かに混じるようになった。昨日は嗄れた声が微かに聞けるようになった。今日は普段の声も少しだけ混じるようになった。
親父が死ぬ数年前に、喉頭癌で自分の声を失った事を思い出した。
今回の一連の出来事の中で、唯一自分が誇れる事がある。声が出なくなってタバコを止めた。今まで三十数年間、真剣に止めようと思った事は無いのだが、とにかく不思議にもスパッと止めているのだ。
禁煙時間は未だ6日間、不思議と全く苦しくはないし、吸いたいとも思わない。勿論初日は事あるごとにタバコを思い出したのだが、今はほとんど忘れている。一日二箱のヘビースモーカーが、突然の禁煙にも関わらず、全く苦労しないで禁煙しているというのは、恐ろしく画期的な事かも知れないのだ。

2005.10.9、

このところ家に居る時間がほとんど無い。一週間の内6日は外泊の日々。
久々の日曜日、外は雨模様で仕事場に行く気にもならず、家で嬉々として悶々とした時間を楽しんでいる。数週間分の安息の時間を取り戻す気で、一歩たりとも家を出ないのだ。家の中の掃除や溜まった洗濯や、周りの草刈りも明日にまわして、ただ何もしないで家の中にいる事を楽しんでいる。いわゆる居溜めだね。
辺りは静かである。雨模様だから秋の虫声もほとんど無く、部屋にいて聞こえるのはコンピューターを冷却するファンの小さな音と、自分がキーボードを打つ音と、自分の吐息くらいかな。
今週から来週に掛けて、あっちへ行ったりこっちへ逗留したりのスケジュールが詰まっているから、またこの家に帰れるのは、いつになるんだろう。

2005.8.4、

またまたバーベキューの話題。
コラボレーションの制作も架橋に入って、野田君が石内部に来る絵の制作に入った。私の作業の手助けに息子も来ていて、こいつがバーベキュー大好き人間なのだ。
barbaque2この一週間で2回もバーベキューをやってしまった。
この日はサンマの安売りがあって、炭火でサンマも焼いたのだが、モクモク出るはずの焼き煙が、火力が強過ぎて炎になってしまう。熱くて近寄れないほどの火の海を、ただただ呆然と見つめている。一分と経たないうちに、全てのサンマが真っ黒焦げになってしまった。頭と尻尾の見分けも付かない真っ黒こげのサンマ、でも中身は程よく焼けていてなかなかの美味だった。
次の日曜日は雨引の全体集会で、夕方からバーベキューらしい。来週も野田君が来るのだが、Megちゃんが制作を手伝ってくれる事になって、またバーベキューをしなきゃ。
我が家の周りには、どういう訳か蚊が居ないから、酔っぱらって外で寝てても安全なのだ。


2005.7.24、

先週の月曜日18日の夕刻、久々に我が家でバーベキュウパーティーをやった。お客さんは、J大の4年生数人である。
barbaque日の暮れかけた頃から、庭の草刈りをして、暗くなってから炭火の準備を始めたのだ。これがなかなか着火しない。とにかく燻る火を囲んで、爽やかな夜風を受けながらに、それぞれがビール/ワイン片手に色んな話に花が咲く。遅い昼食の担々麺が、未だに腹の片隅に残っていて、とにかくアペリティーフが心地いいのだ。
それから1時間、いい火が熾ってきた。カルビと牛肉と、ワインに漬けた鶏肉と、旬の焼き野菜とサラダ、最後は定番の焼きソバ。アルコールも程よくまわってきて、ワイワイガヤガヤ何時間経ったのか?、外気の心地よさに時間を忘れてしまったのだ。
食事の後は、夏の風物詩・花火に移る。その中にネズミ花火が在った様だ。barbaque慎ましくやれば、御近所迷惑にもならないのだが、路上でパンパンとやってしまったから、お隣さんの部屋の明かりが一斉に灯った。こりゃヤバイかも! みんなもほろ酔いで盛り上がってるから、ここで止める訳にゃいかんし、かと言ってパンパン騒ぎ立てるわけにも行かない。機転を利かして、我が家の西に面した広い沼の方角で、花火を再開する事にした。湖面に映って悪くないし、湖面を渡って行く音も、さほど気にならないのだ。
一通りの花火も終わって、後片付けをして、家に戻って時計を見た。なななんと夜中の12時を回っていたのだ。全くの近所迷惑だった事が判明。夜中にパンパンやったら誰でもビックリするよな。
ご近所さんゴメンナサイ。
その夜は時間が経つのが速くて、その後も家でワイワイと飲んでたら寝る時間が極端に減ってしまった。翌朝5時起床、学生を乗っけて3時間半の運転。J大の講評会と納会なのだ。その夜も学科の納会で、夜中まで飲んでしまって、翌朝は石材購入で、4年生を連れて関ヶ原まで日帰りをした。
やっぱり若い連中は元気だよな。先生としてはちと疲れるけど、学生の上に君臨したいとは思わないし、どちらか言うと先生と呼ばれるのも、あまり好きじゃない。学生と同じ視線で、アートの事・人生の事を一緒に考えて行こうと思っている。



2005.6.12、

松田文平氏・通称文平ちゃんのスタジオ兼住まいのお披露目会があった。筑波山系・加波山の南側傾斜地に広がる森の中のスタジオ兼住まいである。石のコッパを高く積み上げた分厚い外壁の内側に鉄骨を組んで、内装材を張り込んである。内部は白を基調としてすっきりとした仕上がりのスタジオと、床が木張りの1-2階の住まいが同居している。内部の壁には所々縦長のガラスがはめ込まれていて、外壁の石積が部屋の中から見えるようになっている。夜は石壁の内側から上向きにライトを当てて、バウンドさせた柔らかい光が、ガラス越しの間接照明になっていて、幻想的な雰囲気を醸し出していた。何年も掛けて自分で設計施工したらしい手の込んだ作りだ。
この日の特別オープンイベントは、全くなるほど文平ちゃんらしい、キュートなモデルさんのクロッキー会があった。老若男女を問わず、モデルさんに釘付けになって、ガサガサ描き込んでいる。私は35年ぶりのクロッキーだったが、下手さ加減はちっとも変わらない事に気付かされてしまった。人体というものは目で見ただけじゃ形の把握が不十分というか、触って確かめなきゃ本質が掴めないと思ってしまった。ushigaeru
夕方から焚き火を囲んでのバーベキューと音楽会があった。近隣の彫刻家やアーチスト、パラグライダーのインストラクター、オカリナ作家、大学生等々が集う中、今まで住居として使っていたという大型トラック用のコンテナが即席ステージに早変わりして、筑波大フォルクローレ同好会の有志のコンサートとオカリナ作家の演奏が興を盛り上げたのだった。アンプラグドのサウンドが辺りの森の静けさの中に吸い込まれて、素朴なケーナのメロディーと、サンポーニャの砂漠に吹く風のような掠れた音が哀愁を際立たせていた。どんな音を奏でても、1キロ以上離れた集落には何も聞こえないはずだ。
眼下に大都会の街明かりを見下ろしながら飲む一杯も、薄暗い路地裏の提灯明かりの中で飲む一杯も悪くないのだが、自然の中で焚き火を囲みながら味わう一杯のビールも格別なのだ。



2005.5.22、

今年もウシガエルの喚き声が、安らかな夜の眠りを妨害する時期が来た。昨年にも増して、丸々と太った牛蛙が、日がな水草の上で日光浴をしているのを見るに付け、俺を見下したその様相に、憎たらしさ百倍である。石を投げてもビクともしない図々しさだ。
ushigaeruそもそもウシガエルは、日本原産の蛙ではない。20世紀初頭に北米から移入されたもので、ブラックバスのように日本各地に繁殖したらしい。こいつの食性は獰猛な肉食で、昆虫や魚介類を食べ、池の頂点に君臨する生意気なエイリアンだ。最近は食用として、北米に逆輸出されているらしい。
我が家の池の牛蛙は体長25〜30センチはあろうかという大物で、それも一匹二匹じゃない。7〜10メーター間隔のテリトリーを持っているようで、その間隔で点々と鎮座しているから、余計に腹立たしく喧しいのだ。
どうやって捕まえるのか未だに方策が見当たらないから、悔しいかな遠目に睨み合っているだけだが、そのうち食ってやる。


2005.4.6、

Ramen-Museum横浜のラーメン博物館に初めて行った。昼ご飯時に近くを通りがかって、しかもラーメンが無性に食いたくなったのだ。
螺旋状のビル駐車場に車を止めて、300円の入場料を払った。え!!何で?? と思ったのだが、よく考えると、ラーメン屋さんに来たんじゃなくて、ラーメン博物館に来たのだから入館料が要るのだ。
メーンは館の地下街である。昭和30年代の懐かしい街並みが、当時そっくりに出来上がっていて、そのレトロな街並みの中に名だたるラーメン屋さんが軒を連ねている。何処に入ろうか目移りがして迷ってしまうのだが、あっさり味らしい支那そば屋さんに入って、オーソドックスな醤油ラーメンを食べた。ハッキリ言って大正解!旨いの一言。麺といい、出汁の効いたスープといい、しつこくなくて、実に絶妙なバランスだ。今まで食った中で一番と言っても過言じゃない。もう一杯食べたいのをグッと我慢して、次は路地の片隅にあるレトロな喫茶店「35ノット」に入った。これがまた私の高校時代に通い詰めた、広島のJazz喫茶の面影があって、紫煙漂う中、70年代ポップスのLPレコードを聞きながら、飲むブレンドコーヒーも、私の祖父の味がした。Ramen-Museum-2
昭和30年代は、私が幼稚園から中学に架けての年代で、街の風景や大人達の動向に、密かに興味を持った時代である。戦後の混沌も一段落して、国民一人一人が、新たな時代を興す事にエネルギーを持ち始めた頃だった。
自分では、まだまだノスタルジーに浸る程の年代じゃないと思っているのだが・・・、正直、この空間に入った途端に、私の記憶回路がビリビリ反応している。街角の薄汚れて懐かしい電話ボックス、全く小憎らしい演出である。
今更ながら、自然との共存を掲げながら、とにかく「新しい事はいい事だ」みたいな、二昔前のプレゼンを未だに引き継いでいる名古屋万博なんぞには、全く興味が無いのだが、このラーメン博物館は、一見一食の価値があると思った。
この日の館内は、昭和60年代から平成初期に生まれただろう若者で、ごった返していた。
ここの風景が、彼らの目にどう映っているんだろうねえ。宮崎駿夫の漫画の中 の風景として、興味を持っているのかも知れない。



2005.3.25、

今日の予定を全てキャンセルして、家の中で椅子に座って悶々としている。昨夜からの強風は留まる事を知らず、見た目には春の陽光が降り注いでいるのだが、目に見えぬ放射能のように杉の精子を大量に飛ばしまくっている。
昨夜からの経験で、肋骨の治癒には時間が掛かる事が分かった。骨を確実に固定する事が出来ないからだ。肺と心臓を外圧から守り、内部の動きを補助るために肋骨はある。それをガッチリ固定してしまったら、生命活動そのものに支障を来すのだ。息をすれば動くし、食事を摂れば内蔵は膨らみ蠕動するわけで、常にフレキシブルに動いているものなのだ。
中でも一番大きく揺れ動くのが、咳とクシャミである。肺に異物が入れば咳が出て、鼻に異物が引っ掛かればクシャミとなって正常な状態に戻そうとする。この現象も自分の意志で制止させる事は不可能に近い。そして、このどちらも腹部と胸部の筋肉を痙攣させて100パーセント使う。肺に息をためて全筋肉が一挙に収縮するから質が悪いのだ。この力は凄いもので、くっ付きかけた肋骨の断裂部を、いとも簡単に再断してしまう。その痛さと言ったら、全身に激痛が走って五分以上動く事が出来ない程なのだ。
今日の天気は、肋骨の治癒にとっては最悪の天候だ。脂汗を流しながら咳とクシャミを堪え、極限まで来ては、涙を流しながら痛さに堪え忍んでいる。
咳とクシャミが続く間は、肋骨の治癒は不可能なんじゃないかと思えて来る。我慢に我慢を続けても、一日にたった一回の咳かクシャミで、元の木阿弥だ・・・。

2005.3.24、

3月21日、栃木県の河川が釣り解禁になった日、鉾田さんと渓流に行った。
天気晴朗なれど、辺り一面の杉は真茶色になって花粉を飛ばしている。杉花粉は植物学的には精子だから、受粉するとヤバイのだ。
早朝から日の傾く頃まで渓流を歩き回ったのだが、一匹のライズもアタックも無い。こんな事は初めてだ。あげくの果てに、日頃の運動不足のためか、魚が釣れないで、両足がビンビンに吊った。
fishing釣行が半ばに差しかかった頃、迂闊にも大切な力作フライが、背後の川面に張り出した低枝に引っ掛かった。ここで大切なフライを失って成るものかと、フライのレスキュウにかかったのだが、低枝と言えども背丈の倍以上はあるから届かない。枝元から体重を掛けてぶら下がって、撓ませてレスキュウする方法を試みた。悪い事にその枝は枯れ枝だったのだ。足が地上を離れて間もなく、ぶら下がっていた枝が折れ、予想外のハプニングに着地する事を忘れた。いや全神経が枝の先に引っ掛かったフライに向かっていたために、咄嗟の判断が出来なかったのだ。渓流の石の上に背中からドサッと落ちてしまった。頭を打たなかったのが幸いだったが、背筋を強打した。その日はさほどの痛みも感じなかったのだが、翌日の夕方からジワッと効いて来て、次の日は笑ってもガンガン響くし、咳などもってのほか、寝返りもうてない程だ。
木の枝に捧げた小さなフライを取り戻すために、高い代償だったなあ。今日も仕事にならないから、朝からこんな絵まで描いてしまったのだ。
今日の午後、クシャミを一回した。息が止まる程の痛さ、体がフリーズしてしばらく動けない。たまらず病院に行って痛さの元を探ったら、何と肋骨が2本折れていたのだ。痛いはずだよな、まったくもう!!。


2005.3.15、

Hanzakeハンザケ? 半鮭? 半酒? ハンザケとは一体何・・・?
広島から中国山地を越えて水の国に行く道すがら、「ハンザケ観察舎」とか「ハンザケ自然館」とか書かれた建物がある。「ハンザケ」とは一体なんだ?と言う事で、前から気になっていたハンザケ自然館に行ってみた。
ハンザケとは、中国山地の渓流に生息する特別天然記念物「オオサンショウウオ」なのだ。大きい奴は、体長1.5メートル80歳にはなるという。肉食でヤマメやイワナ等を食う、いわば私の釣り敵らしい。
Hanzake2グロテスクな風体は、チョット見には異様な怪獣に近いが、よくよく観察すると、デカイ顔の両端に近い部分に、砂粒ほどのカメレオン的な可愛い目がある。アンパンの上の胡麻粒が、間違ってパンの端にくっついたという感じである。胴体の異様さ顔の大きさに比べて、つぶら過ぎる瞳の愛らしさは、私の瞳に近いかも。目の小さい奴で悪人は居ないのだ。
顔の大きさに比べて口は異常にデカイ。顔全体が口である。正面から見るとまるでハンバーガーだ。なんと言っても可愛いのは、何時もパッと拡げている手と足である。ジャンケンには不向きだが、赤ちゃんの手のように愛らしい。
動きはナマケモノ以上にゆったりと超ノロマだが、皮膚の色が自衛隊の迷彩服のように、水の中の岩や小石と同じ色をしているから大型の鳥に捕まる事もないし、餌の魚も警戒しない。係の人の話に依れば、餌の魚が口元に来るまで待って、口元に来た魚を捕まえる時は、素早いとか。
ハンザケ君の数々の特徴は、現代のヒーロー、いやマスコットになれる素質を十分に備えているのだが、とにかくハンザケ君は特別天然記念物・オオサンショウウオとして、地道に生きているのだ。


2005.2.11、

今年に入って2回目の大風邪を引いている。とは言っても、2回目は悪名高きインフルエンザB型で、そんじょそこらの雑菌とは格が違う。
体中の筋肉や節々は言うに及ばす、腰や皮膚も痛い。目の筋肉までがズキンズキンと痛むから目も開けられない。この3日間というもの、全ての自律神経系が変調をきたし、思考回路は寸断され、ただただ時空の漂流物と化した身体は、強力な磁気嵐で電気系がダウンした役立たずの宇宙船だ。ひたすら嵐が過ぎ去るのを悶々と待つしかないのである。とにかく疲れた。うんざりである。病院でもらった抗ウイルス薬を飲んでいるのだが、効果の程が分からない。体の中で菌が蔓延してしまったら何を飲んでも後の祭りらしいのだ。今朝になって、たまらず救急病院に行って、強力な解熱鎮痛剤を処方してもらった。こいつがけっこう優秀で薬が効いている間は37°台に下がる。だいぶ楽になった。
今年はインフルエンザA型も流行っているらしい。B型よりも強力で、40°以上の高熱が続くんだと。私としてはもうこりごりだ。一切何も要らない。

2005.2.4、

家から仕事場に行く道すがら、加波連山の尾根に高さ100メートルはありそうな巨大な風力発電の白い風車ができた。スーッと伸びた柱の上にスマートな三本羽根の風車の出現で、風景全体の印象が変わった。
ヨーロッパでよくお目にかかる型の風車なのだが、和風景観の中で眺めると、やたらとミニマルな存在感がある。しかも長い翼が悠然と回って電気をおこしてんだから,そんじょそこらのキネティックアートは、もうかなわない。
でもパラグライダーやハンググライダー師にとっては、下手すると命取りになるらしい。直径が約60メートルの羽根が3秒で一回転するんだから、羽根の先端は時速226kmで回っている計算になるんだよな。

2005.1.12、

hakusan-ramen大風邪を引いているにも関わらず、展覧会のオープニングに出掛けて行って、電車の無くなるまで根津界隈を徘徊してしまった。
ほろ酔い気分の男が5人、私の息子お勧めの、白山通りにあるという白山ラーメンに行った。シンプルなネオンサインが、寝静まった街道筋にポツンと浮き上がっていて、通り過ぎようとするタクシーの窓越しからも直ぐに分かる。店名じゃなくて「白山ラーメン」という固有名詞に見えて来るのだ。店内は、一間半ほどの間口からカウンターになっていて、店内の八割が厨房という設えである。店に面しての広い歩道の斜向いに、昔から置いてある様な木製のベンチとテーブルを見付けて、腰掛けてラーメンをすすった。
かなり酔っぱらっていた所為か、肝心なラーメンの味を正確には覚えていないのだが、魚出汁のスープと腰のある麺が、酒腹の物足りなさを暖かく満たしてくれた。私にはちょっと塩っぱかった記憶が無きにしも非ずなのだが、腹ぺこの若者には、ちょうどいい味なのかも知れない。
とにかくラーメン道を極めようとする素朴な一店である。次回は雨の昼間に来てみたいと思った。

2005.1.8、

新年早々、大風邪を引いてしまった。咳から始まって、喉に移行して全身に来た。
私が風邪で病院に行く事なんて、ここ10年来無かったのだが、発熱が続いて仕事や学校も休んだ上に、うなされて寝てるだけの精神力が湧いて来ないもので、たまらず近くの病院に行った。病院で処方された6種類の薬を飲み始めて、少し楽になって来たようだ。
未だ完治には遠そうだが、ここに来て午前中の調子のいい時に、なんとか鼻を使って息ができるようになった。ずっと口で息をしていると、水に潜っている時の様な感覚に襲われて来るのだ。早くゴーグルを外して新鮮な空気を吸いたいという思いが募って来る。
風邪如きで右往左往しちゃいかんと、自分を窘める。スマトラ沖地震で15万人以上の人達が津波に飲み込まれた。彼等の状況たるや想像を絶するものがあるはずだ。現実的に、どんなに苦しく悲惨でも、起こってしまったものは後には戻せない。元通りの復興には、一世代分の年月と世界からの支援が必要なのだ。
今の自分には僅かな献金しかできない事が悔しい。苦しみを共有しようにも、口で息ができる事自体が幸せな事なのだ。


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